火の神話学 第5章 宗教と火
#### ゾロアスター教
宗教と火といった時に、まずわれわれの頭に浮かぶのはゾロアスター教のことではないだろうか。それは何よりも「拝火教」という訳語からの連想によるものだと思われる。 自分の勉強不足も多分にあるだろうが、そうかな??という感想しかない。
P.R.ハーツの『ゾロアスター教』によれば、「ゾロアスター教が最聖とするのは、聖別された火である。長い修祓の儀礼を経て、十六の異なった源から得た火である。この聖別された火の一部は雷光によって点される。それは直接アフラ・マズダーに由来するとされる」
ハーツはまた、次のように言う。
「しかしながら、忘れてはならないのはゾロアスター教徒は火を礼拝しないことである。火それ自体は崇敬の対象ではない。全知の偉大な神を象徴し、アフラ・マズダーを人々に思い出させるものに過ぎない。」
火なら何でもいいわけではない。
ポイントは「十六の異なる源から得た火」であろう。
本書で考察を重ねているように、火にはさまざまな機能がある。
ゾロアスター教が火を重要視することは、これらを教義に当てはめたことに対応すると言えなくもない。
修祓 しゅうふつ
#### 火の儀礼
しかし、火の特性の一つとして、不浄なものを焼き尽くして清めるという作用が認められる限り、どのような宗教でも多かれ少なかれ、火に関わりを持っているはずである。
宗教が生活に密着したものであるなら、火が登場しないほうがおかしい。
松前健は、火の儀礼を以下の四つに分類していた。(1)錐火の儀礼、(2)火祭りの儀礼、(3)通過儀礼における火の儀礼、(4)火の神の崇拝儀礼。
(1)では、発火法の違いによって、いくつかの儀礼・神事に分類することができる。
(中略)
しかし発火法の違いがあるにしても、それによって創り出した火を何のために用いるかという点に関しては、殆ど同様であると考えられる。つまり、新たに創り出した神聖な火=忌火で聖水と聖なる新穀を調理し、神饌を作るのである。
神聖な火を「忌火」と呼ぶことが不思議。
「忌む」とは、
次の(2)の火祭りについて。古代では、季節や年の替わり目に古い火を消し、新しい火を錐り出した。つまり、カマドの火を更新し、一族の心身の浄化を図ったのである。
これは前章ですでに見たとおり。
(3)は、人生の節目――誕生、成人、結婚、出産、葬式といった――毎に行われる通過儀礼で見られる、さまざまな火に関わる儀礼である。
これも前述。
(4)
タタラ師たちは金屋子神を信仰していたが、その神事には多くの禁忌が見られた。金屋子神は女の神といわれていたので、作業の間女性と交わることは禁じられたし、家人に月の忌みや産みの忌みがあるときも仕事を休んだ。
しかし興味深いことに、金屋子神は死の忌みは嫌わず、むしろ好んだという。
(中略)
やはりこの場合も、第三章のカグツチの殺戮のところで見たように、新しいもの(鉄)を生み出すためには、何らかの死(犠牲)が必要だ、と考えられていたのかもしれない。ヨーロッパ中世の錬金術の場合でも同様の要素が見られることを、憶えておきたい。
また金屋子神は片目・片足の神であったといわれていることも、示唆的である。ギリシアの火の神ヘパイストスが"曲がり脚"の"不具"であったことも、思い出そう。
『虚構推理』の主人公も、その昔、妖怪に拉致され、帰ってきたときには、片目・片足を失っていた、という設定である。これを、異世界のものと交流ができる根拠としている。
これまで見てきたように、火は、異界と現世との接点となるものである。
著者の城平京氏は、民俗学に造詣が深く、作品内でも象徴的に取り入れているケースが多い。こういったところも意識していることだろう。(余談だが、このあたりも私が城平京氏ファンである所以である。)
#### 火葬の誕生
ところでゾロアスター教の鳥葬に関しては、その起源の理由の一つとして、火を深く尊敬していたので穢れたものを焼くことができなかった、ということがあった。とするならば、日本を含めて世界各地で見られる火葬については、どう考えればよいのだろうか。
葬式は文化としてなかなか興味深いイベントではあるが、実際の葬式の場でこのような話をするわけにもいかないので、やはりこういったことは本によって学びを得るのがよい。
仏典によれば、葬法には"四葬"があるとされる。つまり、土葬、火葬、水葬、風葬(林葬)である。そして高貴な人は、火葬にされるべきだと思われていた。釈尊が入滅後、クシナガラにおいて荼毘に付されたのもこのためである。それ以降、仏舎利信仰と相まって、仏教では火葬が行われるようになる。ただし、中国やチベットで火葬が一般化することはなかった。
というわけで、日本では僧道昭以前にも、火葬が行われていた、といえるであろう。また道昭の時代には、火葬がある程度普及していたようで、それを『万葉集』の歌にみることができる。 新谷は最後に次のように言う。
「その意味では火葬とは、死を自然のリズムに任せるのではなく、人工的、積極的で、死に対して最も攻撃的な対応である…死と死霊に対し、それを正面から克服しようとする方法である」
つまり、人類の社会のレベルを進化させるための1つの段階として、火葬があるということ。
この社会のレベルの進化とは、ある文化の変化や技術革新によって「時代」が変わることを言う。
高城剛によれば、現代日本でいえば、娯楽大麻の解禁とLGBTの許容があと残された課題であるという。 #### デカルトの炉部屋、パスカルの火
パスカルの言葉として知られる、次のような文章がある(杉村靖彦『哲学者の神』岩波講座・宗教4『根源へ――思索の冒険』二〇〇四年より)。
「私はデカルトを許せない。彼は哲学全体において神なしで済ませることを欲した。だが、世界を始動させるには、神に最初の一押しをさせないわけにはいかなかった。その後はもう神には用はないのだ。」
この二種の神の対立と緊張の関係は、西欧人の思考と行動を規定してきた。つまり、哲学を生み出したヘレニズムと、万物の創造主としての唯一神という考えを生んだヘブライニズムである。
この引用は、世界を見る視点として、重要。
西欧人は議論を重ねることに対する姿勢が、日本人よりも積極的であるが、世界の始まりについてこのヘレニズムとヘブライニズムの関係は、重要になる。
西欧人のうち、どういう人がヘレニズム思考で、どういう人がヘブライニズム思考になるのか、その基準というか傾向がよくわからないのだが、
多くの日本人にとってどうか分からないが、私の感覚では、『古事記』のイザナギ・イザナミの国産みは、日本人のアイデンディディとして信じたい気持ちはあるが、創作であることは疑いの余地がないものという扱いだ。もちろん、個人的には大好物です。
西欧人にとってのヘブライニズムが、彼らのアイデンティティにとってどの程度の深さ・濃さの影響を与えているか、そのへんが私にはよくわからないのだが、仮に日本人のそれよりも強く(実生活に影響が出るほどに)影響するのであれば、その問題は、おそらく今後の世界のあり方を問うことにつながるものであるように思う。
ところで、1つ脱線したい。
世界をみる視点として、宗教の時代、政治の時代、経済の時代、技術の時代、という考え方がある。
前の時代の実力者は次の時代の権力者となり、前の時代の権力者は次の時代の社会基盤になる。
この考え方によると、現在は、経済の時代から科学の時への過渡期であるという。
権力を持っていたはずの政府は、もはや大企業を無視して政治を進められないし(政治→経済)、大企業と言えども技術を持っている会社に実験が集中している(経済→技術)。
GAFAやBATHといった言葉を聞いたことがあるだろう。技術でもって現代の覇権を握る企業の頭文字をとった造語。米中経済戦争の影響で、Googleが中国にAndroid OSを提供しないことになった。個人的にはなぜmicrosoftが含まれていないのか気になるところではあるが。
大変興味深い視点であり、世界のあり方を表す有効な方法の1つであると思う。
だが、私は乗り切れないところもある。
20世紀までは、世界は良くも悪くも西欧人の考えがベースとなっていた。歴史的に見ると、ある意味では、西欧の文化が地球上で最も進んでいた。中国の台頭が凄まじいが元になる技術は西欧の科学的な思考とベースに、これを取り込んできた。
これからは、西欧の思考を取り込むのではなく、特にイスラム圏や東洋思想との文化交流が始まる。始まっている。
ここで世界の始まりについての議論も交わされ、新しい知見が生まれることに、期待している。
本書がこの引用を持ち出した理由は、そこからつながる新約聖書と火の関連を記したかったからのようだが、これは本書のこれまでの論理にくらべて、主観的な印象を論拠にしているように思える。すくなくとも、(イスカリオテの)ユダに同行した兵士が松明を持っていたり、シモン・ペトロが暖を取るために火に当たっていただけで、火に意味があると論じるのは軽率ではないか。
私はキリスト教徒ではないが、一応、新約聖書は(2度の挫折を経て)一度だけ読んだことがあり、また解説書は3冊ほど読んだ程度。